昭和56年4月12日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第67節 何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。
信心が長う続かねばならぬ。為には、銘々にと、言うておられますが。長う続く事のために育たなければならない。お育てを頂く事を願わなければならない。ね。お育てを頂くから、段々、有り難い事もになって来る。信心が、有り難い、楽しいものにもなって来るのです。同じことを同じ通りに、いわば育たなかったならば、おかげも育ちません。ね。おかげが育ってくる、信心が育ってくる。
まあ、これは、育って行けば行くほどしに、おかげが言うならば、大きく広く頂けるようになる。だから、楽しみです、有り難い。いよいよ、その有り難さ、勿体無さというものが、大きくなって行く。ね。信心はくぎ付けではないという事は、ね、いつも幼稚園ではいけないという事だと、私は思います。幼稚園が済んだら小学校、小学が済んだら中学校、大学と、だんだん限りなく育って行くという事なんです。ね。
例えば、合楽教会では最近、修行生の方達も段々増えて、その一人ひとりの願いというものが、ね、まあ、言うならば身も心も神様に捧げ奉った姿勢。ね、若い方達が、また色んなその、まあ、夢もありましょうが、それを信心によって、その夢をいよいよ大きくして行こう。そして、それが夢ではない、現実におかげの世界にも入って行こう。自分が助かるだけではない、もう、自他共に助かって行く手立て。その道を合楽で勉強しております。ね。
言うなら、自分というものを、ね、空しゅうしての信心。しかも、それが生涯というのですからね。本部で修行致します時に、ちゃんと、その神様へのお誓いはしてある。一生を神様に捧げますという。だから、その捧げますだけでは出けん。それが、本当に神様が受けて下さる、喜んで下さる捧げ方でなからなければならない。
昨日は、あの、朝の御祈念の時に、修行生の先生方の事を、こう毎日お願いする訳ですけども。お願いさせて頂いておりましたら、あの、熨斗ですね、あの、熨斗袋に熨斗がついておりましょう。あの、熨斗に小さいあの、金紙で、こう帯がしてありますよね、熨斗にこう。その、熨斗は熨斗だけれども、その帯がしてないところを頂くんです。ね。だから、例えば、んなら、一生を神様に捧げますと言うても。ね。
やはり、欠げておっては、捧げるが捧げるにならん。それこそ、神も助かり、氏子も立ち行くと。言うならば、自分が捧げる事によって、神様が助かって下さる。ね。そして、自分も助かる。だから、神様もと、人間のあいよかけよの働きが残ってくるようなおかげを頂かなければならんけれども。なら、お道の教師も沢山ある中に。ね。それこそ、今日の御理解で言うなら、一つも育っていない。
例えば教会を持つ。なるほど、教会の維持だけがやっと出けとる。言うなら、維持も出けんというような教会も沢山あるとです。ね。そういう事で一生を捧げておるつもりでは、つもりじゃおかげにならん。それこそ、最近修行生の先生方の、ここでのお届けの内容が変わって来た。どうぞ、御神願成就ばっかり願っておった。それが、もう本当に身近に、親先生の手にも足にもならせて下さい。合楽示現活動の、言うなら参画が本当な事になって来た。
そういう、もう一人ひとりが事実その事に、非常に実感を込めて、一日も早く布教にも出たい。それは、神様の言うならば手にも足にもなりたい訳でしょうけれども。言うならば、親先生の上に起こっておる神様の働き。その働きが成就する事が、とりもなおさず神様の願いに応えることだという風に、こう身近に感じて来た。だから、親先生の手にも足にもならせて下さいといったような、まあ、ことになって来た。
そんならば、その手も足も、言うならば、もうそれこそ手と足と口と心が、喜びを持って御用が出ける時、初めて手にも足にもなる事になる。動こう( )、手も動かん、足も動かんといったような事では。ね。例えば、今日は修行生の先生方がこう、あそこに開いとるところを見ると、朝の御祈念に出てきてない先生がだいぶあるという事になるのじゃないでしょうか。ね、そういうような事で一生を捧げますて言うたって、神様は受けて下さらん。
信心お帯がしっかり出けてないもん。熨斗にこう、こう、言うならば、あの帯が出けてないもん。いつでしたか、信者方が自分達の希望を、ね、それこそアメリカにでも、ね、ヨーロッパにでも。ね。もう、それこそ、世界万国、津々浦々に自分はどこに布教したいといったような願いをここに出した事があります。私は大変嬉しかった。とても、見も知らない、知らない国にでも、親先生が行けと言われるなら、行かれる手立てがついたら行こうという、その心に私は打たれた。
神様にその事をお礼申させて頂いておったら、こう、標的に向かって弓をこう射っておる、稽古をしておるところを頂いた。ね。向こうの標的に届く為には、この弓が満月のように引き絞られなければならんでしょうが。それに、このくらいばっかり引いとるとこを頂いた。これじゃ、もうその辺にポトンと落ちてしまうだけじゃ。そういう事で、もし生涯を終わるような事であったら、せっかく、言うなら精神共に、身も心も捧げておると言うても、捧げた事にはならないでしょう。
ね、信心はくぎ付けではないのですから。ね、それが本当に育って、それこそ満月のように引き絞って、そこに当たるか当たらないかは稽古次第である。繰り返し、繰り返し稽古しておる内に、百発百中、言うならば的を射ぬく事の出けるようなおかげ。それが、出けて来るから、嬉しいのであり、楽しいのであり、有り難いのであります。ただいきなり、ぽんぽんあの弓矢を射っただけではいけん。ね、その標的に向かって、射っておるそれが段々、的確になって来る喜び。
ここに信心の育ちということがあるのです。これは、御信者の皆さんの場合であっても、やっぱ同じだと思うんですよ。椛目時代からずっと、私が皆さんに申して参りましたことは、ね。その当時、金光教では、この祈りというものが大体ね、祈りの内容というものが、もうそれこそ天下国家の事を祈り、それこそ天皇皇后陛下のことから、日本国の、中の事を、まっ、祈る事になっておりましたよね。
けれどもね、いくら天皇陛下の事を、それで、天長節に旗を上げる事の忘れるぐらいな事で、私は神様に通じん。はあ、今日は天皇陛下の言うならばご生誕の日であると、それこそ生き生きとした心で、感謝の心で日の丸の旗でも立たせて頂くような内容がなしに、はあ、毎日天皇皇后両陛下のち言うたっちゃ、駄目だて私が。もう、そげな事言うよりかお願いせん方がええ。それよりか、もすこし、神様に通う実感のもの。
だから、先ずは自分の痛いなら痛い、痒いなら痒い事を、本気で一生懸命願えというのが、当時の椛目時代の信心でしたよね。先ず自分のことが、一番、痒い痛いのは貴方だから。どうぞと言うて、その事を一生懸命願わなければ信心に、言うならば生き生きとしたものが生まれない、というのが、まあ、その時分でしたが。最近では、皆さんの信心が段々だんだん育って、くぎ付けではない。だんだん変わってきた。最近、総代さん方のお届けを皆さんが聞かせて頂くと。
ね、ここいっぱいの皆さんがパーっと平服される。マイクで流されますから、皆さんのお広前で御祈念をしておる一人ひとりの上にそれが聞こえて来る。そして、あれは総代さんだけの祈りではない。私ども、合楽の信奉者一人ひとりの祈りでなからなければならない、願いでなからなければならないという事が、実感出けるでしょう。それだけ、貴方がたの信心は進んだという事になるわけ。ね。
それこそ、その願いというものは、和賀心時代が世界の津々浦々にまでも広がって行くような、親先生の願いが、言うならば成就して行くようにという願いを、一人ひとりが真剣にお取次ぎを願われる。それを、後ろで聞いておられる皆さんも、どうぞ、あれは総代さんだけのお願いじゃない。銘々の信心内容でもなからなきゃならんという事を、段々分かり、それが実感として祈れれる信心。
それが、私は信心をする、言うならば、ね、だんだん祈りも偉大になって来る。しかも、その内容が充実して来る。いや、自分の事以上に、その事が切実に祈りになって来るようなお育てを頂きませんと、おかげが大きゅうならん。ね。大願の氏子のために、金光大神が身代わりになるというような、まあ、御教えがあるという、今度新たに出る教典に、それが出て来る訳ですけれどもね。
その、大きな願いがね、例えばそれが、とても私どもの祈りが届かん、届くとは思われないけれども。やっぱ祈らずにはおられんという祈り。そういう祈りがです、ね、今度は大願。大きな願いの氏子のために、金光大神が出けないけれども、出けたかのようにしておかげを下さろうと言うのです。昨日、泉尾教会から毎月出ておるご本を送って頂いて、見せて頂きましたが。
青年、男子壮年会の大会があっております。ね、言うならば、壮年の方の、ばっかりの大会です。それがもう、それこそ、あの広いお広前にいっぱいなんです。これは、御大祭じゃろうかと思うたら、壮年信徒の方達ばっかりなんですよ。もう、驚いてしまいます。どこに、こういうその、沢山な人が助かる手立てというものが、本当にあるだろうかと。先生のお話を頂いても、まあ、泉尾の話を頂いても、もう、それこそ、こんな事で助かるだろうかと思うようなお話であったり、感じるんです私が。
もう、そういう意味においての、合楽のお話というものは、もう本気でその人その一人が実験実証して行けれる、しかも楽しゅう、愉快に出けれるようなお話であるのに引き換えて、そうではないけれども、どうしてあれだけ沢山な人が助かるかと。言うならば、もう、もう77でありなさいますかね。私はたしか、10はおあんなさいますから。その、老骨にムチ撃ってという、それこそ、世界狭しといつも飛びまわっておられるです。
世界総氏子の助かりの事のために、とにかく海外のそういう運動をなさる事ん為に、毎年二億円からの金を使われるという、これはお話ですから、どこまでが本当か分かりませんけども、聞きました。人が、多くの沢山の人が助かる事のために、金をその、まあ、沢山使うて行かれ、また自分も、ね、もうそれこそ世界津々浦々にまで、言うなら信心を広めよう、人の助かりを願っておられるということ。
それは、ね、世のお役に立ちたい。人の助かるお役に立ちたいという一念が、段々だんだん育って行ったら、もう日本国だけではなくて、もう世界中の氏子が助かって行く事を願いとされる。その大きな願いに、その願いが成就例えばしないでも、なら、金光大神がその大きな願いに対して身代わりになるような働きを現しておられるのが、今日の、その、泉尾教会だと思うです。ね。
壮年の信徒ばっかりが千名から集まったと書いてあります。ね。とにかく、驚きです。というように、なら先生の祈りも始めからそうじゃなかったでしょうけれども、それが、祈りと行動とが一つになって行くような信心が育って行かれ、くぎ付けではない。もう、ますます限りなく大きくなって行かれるところに、なら、ますます泉尾教会のごひれいていうものは、大きく広く輝いて来たという事になるという。ね。
例えば、私どもが願っておる、本当に合楽理念を世界の津々浦々にと。ね、世界の真の助かりというものが、和賀心時代が世界中に広まって行かなければならんと、私は心電させて頂いております祈りを、私が祈る、総代さん方が祈る、合楽の信奉者の全部の方が祈られるというような事になって参りましたら。ね、素晴らしい合楽の力。それは、んなら、津々浦々にという事は出けないにしても、そういう願いが成就しなくても、おかげを頂くのは貴方がただという事になりましょう。
だから、自分の祈りの小ささ、自分の祈りの微弱さ、弱さをね、思うてみて。言うならば、いつまでもこんな事ではいかん。言うなら、くぎづけであってはならん。それが育って行かなければならん。ね。それには、なら、祈りの言葉だけではなくて、それに行動力が伴わなければならん。一生を神様に捧げたという、んなら、お道の教師、修行者が。ね。それこそ、一生を、ね。ある先生が合楽に導かれなさって、あの、いっぺん合楽にお参りしてごらんなさい。
もう、数十年経つ教会で、人も人が助からん。まあ、やっと教会が建っておるというぐらい。ある合楽の熱心な信者さんが、その先生に、いっぺん合楽にお参りをしてごらんなさいと言うて、進められた。それに対する手紙のご返事が来ておる。ね。そして、そのご返事に、行きたいけれども色んな事情で行かれない。そして最後に、まあ、俳句が一つ書いてあった。ね、鳴きもえず、飛びもえずしてほととじす、と書いてあった。素晴らしい句ですよ。
けれども、その句としては素晴らしいばってん、それこそ、鳴きもえず、飛びもえずしてほととぎす、で一生を終わったら、どういう事になるでしょう。ね、それこそ自分の全身全霊を神様に捧げた。捧げただけではいけん。ね。それこそ、弓を引くなら満月のように、先ず引き絞る力を頂いて、そして、んなら、稽古という事は、また限りがない。百発百中当たるようなおかげを頂く事の為に、一生、自分の体全身全霊に熨斗をつけておっても、その熨斗に金の帯が一つしてなかったら、もう熨斗が熨斗にならない。
しっかり信心の帯をせよと、まあ、言っておられる事ではなかろうかという風に思います。ね、そういう一心がなからんと育たんです、心が。一心で神様に向かいませんと、いつまでも、ほんな自分のこつばっかりを願う。自分の孫んこつばっかり願う婆さん。ね。自分一家の、お店の繁盛ばっかりしか願えない。ね、隣近所の店が繁盛すると腹ん立つごたる信心では、どうにもなりません。
ね、まず、町内、商店街なら商店街の全体が繁盛するように願わにゃいかん。ね。その中にある自分の店も、一緒に繁盛して行くのですから。ね、大は小をかなえるです。ね。そういう、私は祈りが、はあ、自分の祈りというものが、だんだん本当なものに育って行きよるなあと、思わせて頂けるような信心を、私は、ね、くぎ付けではない信心だという風に思います。
長う続かんと言っておられるが。自分の信心が育って行きよるから、もう、言うならば、ね。もう、止めろと言うても止められん。ね。育って行くに従って、おかげも育って行きよる、大きゅうなって行きよる。楽しゅうして、有り難うして、それこそ愉快に、いよいよ信心を続けて行く。いわゆる、この信心を孫にも子にも伝えずにはおかんという、言うならば働きも心も起こって来るというものでありましょうね。どうぞ。